里親アーカイブス

第1回
2020年1月20日up
何かあったら一緒に来なさい。一緒に生活しよう。

【前編 生い立ち編】

丸山雅子さん(川口市)

 第1回里親アーカイブスでは、川口市の丸山雅子さんからお話をうかがいました。丸山さんは「 何かあったら一緒に来なさい。一緒に生活しよう」と子どもに伝え、23人の養育に当たられました。平成31年に里親登録を勇退されましたが、子どもへの思いは、同じく里親になった長女の珠実さん、ファミリホームを開設されている次男の智也さん、珠実さんと智也さんの支えになっている長男の浩一さんに引き継がれています。

 まずは、戦後をたくましく生き、福祉への思いを胸に多くのお子さんたちと過ごされてきた丸山さんの世界を、さあ、どうぞ!

満州で敗戦を迎えて - スプーン一杯の塩と人の命

 私は満州の新京で生まれました。日本政府が満州に新しい街を作ろうとして、その場所に新京という地名を付けたそうです。叔父たちが満州で仕事をしていた関係で、私の父も一旗揚げようと満州に向かい、そこで女優の卵やモデルをやっていた母と結婚し、兄と私と上の弟が生まれました。下の弟が母のおなかにいる時、父は戦争に行きました。祖父は皇室関係の仕事も受けていた彫刻家で、父の兄弟も飾り金物の職人など、ものづくりをする方々でした。父自身は15人兄弟の長男でしたが、その関係の職にはつきませんでした。

1歳の頃、兄と一緒に満州にて

 日本が敗戦を迎えると、母と私達子ども達は日本に帰る順番を待ちました。ある日、中学生くらいの男の子がウチの家を外から覗いていたので、母がドアを開けて男の子に応対しました。その男の子は「スプーンに一杯、塩が欲しい」と言ったそうで、母は「ない」と断ったそうです。当時6歳くらいだった私は母に「塩はウチにあるじゃない」と言ったのですが、母はもの凄い勢いで「今は日本に帰らなければいけないんです。他の子のためにそんなことなんかできません」と怒鳴ったのです。母にそんなに怒られたのは初めてのことでした。

 聞いたところによると、塩スプーン一杯と水で人間は一週間生きられるそうです。でも、母はその子に塩をあげませんでした。反抗期になると、母のことをいつも人殺しだと思っていました。ずっと後になって、母はあの時のことを手紙で謝ってきました。「あの時、私はあなた達を連れて帰らなければならなかったので、そんなことを考えてはいられなかった。ごめんなさい」と書いてありました。

 その後、やっと自分たちが日本に帰る順番になりました。「もう満州には二度と来ない」と母が船の上から海を見ていたのを覚えています。ロシア兵に追いかけられたり、泥棒に遭ったり、いろいろありましたが、なんとか日本に帰ってくることができました。日本に到着すると、父が迎えに来てくれていました。

ジャッジさんから出された人生の宿題

 小学5年生の時、地方から東京に移り住みましたが、我が家は貧乏のどん底にあり、翌年、私は日比谷公園で新聞売りを始めました。新聞を売っていた場所には、アメリカ人のNHK記者の方がいつもいました。近くでバスを降りてくる女の人を待っていたのです。そのアメリカ人の方は漢字が読めるので、新聞を横目で見ながら、「いよいよ〇〇ですね」などとよく話しかけられました。そして、私のためにガムやヌガーをそっと置いていって、女性がバス停に到着するといなくなるんです。

 クリスマスの時、その女性が私のところに来て、「すみません、ジャッジさんという方があなたのために洋服を買ってあげてほしいと言っているので、ちょっと一緒に行きましょう」と言って三越に行きました。三越ではワンピース、靴、マフラー、オーバーを買ってもらいました。NHK にも遊びに行かせてもらって、お茶を飲ませてくれて、ショートケーキを食べさせてくれました。

 母は「子どもたちにそういうことをしてくださっても、何もお返しすることができません。私たちは貧乏ですから」とジャッジさんに言いました。するとジャッジさんは私の顔をじっと見て、「あなたが大きくなって、人に何かしてあげられるようになったら、そうしなさい。それが人に返してあげることですよ」とおっしゃったんです。

 ジャッジさんのその一言が私の人生の宿題になりました。それ以後、お電話をいただき帝国ホテルで一度ご馳走になったきりですが、この宿題に向き合い続けることがお返しだと考えて生きてきました。

 その後の人生では、困っている子どもに対して「 何かあったら一緒に来なさい。一緒に生活しよう」と伝えてきました。それを何かに変えたいとか、お金にしたいとか思ったことはありません。子どもが何とか良くなってくれれば、それでいいのです。ジャッジさんから「人にしてあげなさい」と言われたな、と思い出すことがよくあります。

 いろいろなことがあったので、自分の人生はドラマみたいだなあと思うことがあります。満州から引き上げてきたり、いろんなことを通して、私自身生かされてきたなあと思います。満州で肺病になって死ぬはずのところを死なないですんだり、満州に置いていかれた子どももいたのに、ちゃんと日本に帰って来られたり。だから、少しぐらい子どものひどいところを見ても、「あーそうか、私でもそうなっちゃうなぁ」と思うくらいです。

新聞売りで稼いで、たくましく生きて

 私は小学6年生で新聞を売るようになってから、すごく稼ぐようになりました。アメリカの新聞で『スターズアンドストライプス』という新聞があるんですが、 あれは1部20円で、 他の新聞よりも利益が出るんです。当時、新聞を売って1日100円の利益が出たら、家族全員が食べられました。父はマラリアを患っていて臥せていました。 そして毎日、私が100円を家に持って帰っていました。

 あの頃、宝塚劇場の辺りは日本人の立ち入りが禁止されていましたが、私が『スターズアンドストライプス』を持っていたら、そこの支配人が私を呼んで、「ここで新聞を売りなさい」と言ってくれました。日本人は入ってはいけないのに、私だけ入ることを許されて、切符売り場の隣で新聞を売ることができたんです。その結果、1日1000円の利益を得ることができました。

 花売りの女の子が、花が売れなくてかわいそうだったので、売るのを手伝ったこともありました。靴磨きの少年の商売も助けたことがありました。数寄屋橋に子ども達がたくさんいて、なにかにつけ私を助けてくれて、いろんな話をしました。お金があるので、映画館でかたっぱしから映画を見て歩きました。母には「いいかげんにしなさい」と怒られましたが、「じゃあ家出する」と反抗するので、母は私を怒れなくなりました。

福祉への思いと結婚

 マラリアから回復すると、父は競売屋の仕事を始めました。その頃、私は新聞売りを親から止められており、父の商売のお金の勘定を手伝っていました。お金の勘定をする時に、こっそり、お金を抜いていたので、中高校時代はお小遣いに困りませんでした。高校卒業後はテレビ関連の専門学校に行き、ナナオという会社に入社しました。この会社員時代に、夫となる丸山武夫さんに出会いました。

23歳 OL時代

 武夫さんはとても貧乏で、かわいそうだったので、「ああ、この人、食べさせてやらないといけないな」と思ってしまいました。武夫さんと結婚することになると、両親は怒っていましたが、父が結婚式や新婚旅行の費用を出してくれました。父には長男としてのプライドがあり、「離婚は恥で、兄弟から笑われるから、結婚費用は出すので離婚だけはしないでくれ」と頼まれました。

 武夫さんは11歳年上です。若い頃、私が同年代の男の子たちに「福祉の世界で生きていきたい」と話すと、「それは理想論で僕たちにそんなことはできないよ」と言われていました。ですが、武夫さんだけは「うんうん」と聞いてくれました。

 でも、何もわからないで、ただ、「うんうん」と言っていたことが後になってわかり、泣きたくなりました。父から離婚しないように言われていましたし(笑)。のちに、私がおさなご園を開設した際に、父は保育園の会計を80歳になるまで手伝ってくれました。父は82歳か83歳の時に、母は77歳で亡くなりました。

後編では、丸山さんがいよいよ里親登録し、様々な背景のあるお子さんたちの養育に奮闘する話に移ります。